9/23(金・祝)よりヒューマントラストシネマ渋谷、池袋シネマ・ロサ、アップリンク吉祥寺ほか全国順次ロードショー 劇場情報
監督・脚本・製作:ポール・サルツマン
ナレーション:モーガン・フリーマン
製作総指揮:デヴィッド・リンチ
出演:デヴィッド・リンチ、パティ・ボイド、ジェニー・ボイド、マーク・ルイソン、ルイス・ラファム、ローレンス・ローゼンタール、リッキ・クック、ハリプラサード・チョウラシア、デヴィアニ・サルツマン、ポール・サルツマン
1968年、23歳のカナダの青年ポール・サルツマンは、失恋の傷を癒すため、北インドのガンジス川のほとりのリシケシュにある超越瞑想の創始者マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーのアシュラム(僧院)の門を叩く。そこで思いがけず出逢ったのは「ザ・ビートルズ」。ジョン、ポール、ジョージ、リンゴの4人とパートナーたち。ビーチ・ボーイズのマイク・ラヴやドノヴァン、俳優のミア・ファローと妹もいた。彼らもヨーギーから超越瞑想を学ぶため長期滞在していた。サルツマン青年がアシュラムの門前に着いた時は、ビートルズたちが滞在しているため入れず、門前で8日間待った。その甲斐あって中に入ることができ、「ザ・ビートルズ」の人々とも会話することができ、彼らの信頼を得た。サルツマンもそこで瞑想を学びながら、「ビートルズ」と過ごした奇跡のような8日間を多くの写真に残した。これは、その写真を通して、彼がここで「ビートルズ」とともに過ごした8日間を描いたドキュメンタリーだけど、後に映像作家になったポール・サルツマンは、50年後、その地を再度訪ね、思い出を検証する作品を作った。そして、ここで作られたビートルズの最高傑作と言われる「ホワイト・アルバム」誕生の秘話にまつわる話が語られる。とても貴重な記録であるとともに、ビートルズのスーパースターでない普通の青年ぽい姿も映し出す。
ポール・サルツマン監督はインドのアシュラムに行く前に、ビートルズの出身地リバプールにある博物館「ビートルズ・ストーリー」を訪ね、このアシュラムで、自分が撮ったビートルズの写真を眺めたり、ビートルズの関係者にインタビューも行い、当時のことに思いをはせる。
イギリスの歴史家であり、ビートルズ研究の世界的権威マーク・ルイソン氏と同行し、アシュラムに向かったポール・サルツマン監督だが、「ホワイト・アルバム」の曲数について議論したり、この映画の製作総指揮者であり、超越瞑想の推奨財団の創設者でもあるデヴィッド・リンチ監督にも取材。さらにジョージ・ハリスンが作った「サムシング」「フォー・ユー・ブルー」にインスピレーションを与えたといわれる、ハリスンの元妻・パティ・ボイドや、インドの瞑想の旅に参加した妹のジェニー・ボイドにも話を聞き、驚くことに「コンティニューイング・ストーリー・オブ・バンガロウ・ビル」のモデルになった、虎を撃ち殺した男(リッキ・クック)にも話を聞いている。彼はその後動物カメラマンになったあと、今は自然保護活動をしていると語っていた。
ナレーションはモーガン・フリーマンが担当している。
ビートルズが1968年頃、インドに瞑想体験をしに行ったということは知ってはいたが、長い人は2カ月近く滞在したとは思ってもみなかった。
若き日の監督は、偶然「ビートルズ」に遭遇したとは言え、よく彼らに近づき会話や交流ができるようになったなと思った。彼らとお近づきになって写真をたくさん撮ったけど、その写真を倉庫?にしまって「忘れていた」と語っていたけど、そんなことありなのかな。しかもビートルズのファンでレコードもたくさん持っているのに。長く眠っていた写真の価値を見出したのは16歳になった彼の娘さんと語っていたけど、撮ったあと、何も使わず、そんなに長くしまっていたのだろうか。もともとカメラマンのようだから、彼が撮った写真は、素晴らしいシャッターチャンスを捉えていると思った。貴重なビートルズの記録。ビートルズがインドに行ってからインドブームになり、インド詣でをする人は日本でも増えたし、シタールという楽器も知られるようになった。そしてヨガもブームになった。
後にサルツマンは、「ビートルスが僧院で過ごした数週間は穏やかに過ごし、彼らにとっては創造のオアシスとなった。瞑想、ベジタリアン食、ヒマラヤ山麓の美しさ。ガンジス河のゆったりした流れ。追いかけてくるファンも、マスコミも、急がされるスケジュールもない。この自由の中で彼らが作った音楽は、それまでの輝かしいキャリアのどの時期よりも素晴らしいものだった」と記述している。
あのアシュラムは、今は“ビートルズ・アシュラム”として一般公開されている。ビートルズファンにとっても、それほどでない人にとっても50年も前のビートルズの貴重な写真と、曲作りのエピソードと、開放感いっぱいのビートルズの姿を観ることができる作品。
上記集合写真をサルツマンが撮った時のエピソードが面白い。ここにたくさんの人が集まってきたので自分のカメラ(ペンタックス)を向けたら、ビートルズのメンバーが自分のカメラでも撮ってほしいとカメラを3台渡されたけど、全部ニコンだったという。サルツマンは4台のカメラをぶらさげそれぞれのカメラで撮ったと語っていた。安いカメラと高いカメラと表現していたけど(笑)、全部日本製のカメラ。あの当時(1968年頃)日本製のカメラの性能は世界で高く評価されていた。私も68年当時使っていたのはペンタックス。働くようになってから買ったのはニコンだった。ニコンでも安いカメラだったけど、それ以来40年近くニコンを買いかえ使っていた。この写真はリバプールにある博物館「ビートルズ・ストーリー」にも展示され、その前でそのエピソードを語っていたが、等身大に拡大された大きな写真だった(暁)。
ビートルズが活躍していた1960年代から1970年代にかけては、私の小学生から高校生の時代。ラジオから流れて来る様々な曲の中でも、ビートルズの曲は私にとって心地よく、新しい曲が出るのをいつも楽しみにしていました。今のようにネットで即座に情報が入る時代ではなかったのに、ビートルズがインドに行ったことも、ちゃんとリアルタイムで知りました。私の生まれ育った神戸には、インド人も多く暮らしていて、小さい時から馴染みがあったので、好きなビートルズがインドに行ったことにとても興味を持った覚えがあります。でも、具体的なことを聞いたことも、調べたことも実はなかったことに本作を観て気が付きました。
リシケシュのアシュラムのヨーギーは、著名なビートルズの一行を、それなりに意識して受け入れたと思うのですが、ここで過ごすビートルズは、実に自然体で、リラックスしていたことが見てとれました。
偶然ビートルズに出会った若き日のポール・サルツマン監督が、ごく自然にビートルズ一行の会話の輪に入れたのも、彼に下心がなかったことや、追いかけて来るファンから解放されていたことも大きいのでしょう。
ポール・サルツマン監督は、23歳の時に、インドのことを何も知らないのに、インドにいけという声が聞こえて、違う自分を探す旅に出たのだそうです。(旅費を工面した経緯は、ぜひ映画でご覧ください)
インドに来て、恋人から最初に受け取った手紙に「ヘンリーと暮らし始めた」とあって、傷心を癒すためにリシケシュのアシュラムに向かったのです。打ち解けて話せるようになったジョン・レノンに話したら、「失恋は次の恋の始まり」と慰めてくれたとのこと。実は、ジョンもその頃、オノ・ヨーコと出会っていたのだとか。
50年の時を経て知る、インドでのビートルズの素の姿。『ホワイト・アルバム』に収められている「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」の歌詞をしたためた紙を足で押さえながらポール・マッカートニーが弾き語りするのも楽しいです。(咲)
公式サイト http://mimosafilms.com/beatles/
2020年/カナダ/英語/79分/カラー/1.78:1/5.1ch
配給:ミモザフィルムズ
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