2022年06月11日
ポーランドへ行った子どもたち(英題:The Children Gone To Poland)
監督:チュ・サンミ
プロデューサー:チェ・スウン
音楽:キム・ミョンジョン
出演:チュ・サンミ、イ・ソン
ヨランタ・クリソヴァタ、ヨゼフ・ボロヴィエツ、ブロニスワフ・コモロフスキ(ポーランド元大統領)、イ・へソン(ヴロツワフ大学韓国語科教授)、チョン・フンボ(ソウル大学言論情報学科 教授)
1950年代、半島を二分する朝鮮戦争が3年余り続き、双方に多くの犠牲者が出た。北朝鮮は自国の戦争継続のために、同じ社会主義国へ戦争孤児を託した。ロシア、ハンガリー、ルーマニア、チェコへ数千人。ポーランドには1500人が送られた。
チュ・サンミ監督はポーランドで作られたドキュメンタリーを観て、当時を思い出して泣く元教師たちを不思議に思う。子どもたちとどんな繋がりがあったのか? 映画制作のために監督は脱北してきた少年少女たちのオーディションを行なった。明るく振舞っている子も家族の話になると涙が止まらない。その中に大学生のイ・ソンがいた。監督は彼女と一緒にポーランドへリサーチに行く。
ポーランドで孤児を世話した養育院の元教師や保母たちの記憶は鮮明で、辞書もない中、覚えた朝鮮語を忘れずにいました。孤児たちもポーランド語を学び、職員たちをパパ、ママと呼んで慕ったそうです。自分たちも戦火で焼かれ復興途中であったのに、北朝鮮の孤児を預かり慈しんだポーランドの人たち。今ウクライナからの避難民を次々と受け入れています。広い心の奥深くに同じ傷があることに想いがいたります。
北朝鮮は国の復興を労働力に頼り、東欧に散らばっていた孤児を徐々に帰国させました。1959年に最後の一団が北朝鮮に帰るとき、「ここにいたい」と泣いた子どもたちは今どうしているのでしょう。
監督と旅して心を開いたイ・ソンも、辛い体験をしていました。これからはいい思い出で満たされていきますように。準備中の映画が完成して観ることができる日を待っています。(白)
北朝鮮が、朝鮮戦争時の戦争孤児に思想教育を受けさせるために、当時のソ連や東欧の社会主義国に送り、数年後には呼び戻したという史実に驚きました。子どもたちに宿っていた寄生虫を調べると、出身地が今の韓国というケースもあって、北が釜山近くまで迫ったことを思い起こします。寄生虫で出身地がわかるということにもびっくり。
チュ・サンミ監督が劇映画のためのオーディションで見出した脱北者のイ・ソンさんが、とても素敵です。かつて世話をした子どもたちを思い出して涙する教師たちを見て、もらい泣きするイ・ソンさん。今も北朝鮮にいる家族のことを思い出しての涙でしょうか・・・
チュ・サンミ監督の劇映画には、イ・ソンさんは少し年を取ってしまったので起用できなくなったそうですが、今後、女優の道が開けるといいなと思いました。(咲)
朝鮮戦争時の家族の離散は随分と描かれてきましたし、朝鮮戦争後の孤児たちが韓国から海外に引き取られていったという話も、いくつか映画化され観てきました。でも北朝鮮に残った孤児たちが、共産圏の東欧諸国に託されたということは全然知りませんでした。しかも個人ではなく団体で、各国に託されていたということを知り、大変驚きました。このドキュメンタリーではポーランドに託された子供たちのこと。その子供たちを世話したポーランドの神父さんや、寮で世話をしていた人など、子供たちと密接にかかわってきた人たちに取材していました。ほんとに歴史というのは、埋もれていくものです。これを観て、日本の孤児たちはどのように、日本の復興の中で育っていったのだろうと思いを馳せました。戦後の映画やドキュメンタリーを観ると日本の孤児たちはけっこう出てきますが、あの頃の浮浪児や、街頭で暮らしていた孤児たちは、ほとんど孤児院や養護施設に入ったのでしょうか。その後の生活と日本の中でどのように成長していったのかという映画やドキュメンタリーというのは、ほとんど観たことがないように思います。戦後10年くらいまでのものしか。その後の社会での受け入れなどを描いた映画は、あまりないように思います。映画の中のエピソードや断片では描かれていることもあるけど。日本の孤児たちがどうなったのかもぜひ観てみたい(暁)。
2018年/韓国/カラー/DCP/78分
配給:太秦
協力:大阪アジアン映画祭、座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバル
©2016. The Children Gone To Poland.
公式サイト:http://www.cgp2016.com/
★2022年6月18日(金)ポレポレ東中野ほか全国順次公開
☆チュ・サンミ監督インタビューはこちらです。
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