監督・脚本・撮影:渡辺公夫
音楽:團伊玖磨
製作:上原明
解説:宇野重吉
「パラリンピック」という名称が初めて使われた、1964年の東京パラリンピック大会の模様を収めた記録映画。1964年、東京オリンピックが終わり、街が落ち着きを取り戻したはじめたころ、「国際身体障害者スポーツ大会」が開幕する。この大会の第1部は、下半身麻痺のため車椅子で生活する競技者を対象にしたもので、これが「東京パラリンピック」の愛称で呼ばれる。大会開催にあわせて集められた日本人の参加者たちが、海外の選手たちとの交流を通じて、競技経験や社会保障制度の違いを見せ付けられながらも、スポーツによって社会復帰への意識や希望を強めていく様子が映し出されていく。1965年に製作・公開。2020年東京オリンピックおよびパラリンピックの開催を控えた19年、デジタル修復版が劇場公開。
1964年の東京オリンピックが閉幕した後、車椅子生活を送る下半身まひの競技者を対象にした「国際身体障がい者スポーツ大会」が開催される。後にパラリンピックという愛称で呼ばれることになるこの大会に参加するため、更生指導所では病気や交通事故などにより車椅子を使う人々がスポーツに励んでいた。開催が近づき、彼らは世界各国から集まった同じ境遇の選手たちと交流を重ねる。
浅薄にも1964年の東京オリンピックで、”パラリンピック”という名称が初めて使われたことを知らなかった。オリンピックと相次いで開催されたのも東京が初なのだ。障害者スポーツの黎明期を映し出した記録映画が劇場公開されるのは、2020年開催の東京パラリンピックを前に貴重な機会と言える。
映画は東京オリンピックの看板や垂れ幕、万国旗が引き下ろされる場面から始まる。華やかな祭典の残響が鳴り響き、暫し静寂の後で広がるタイトルバック…。パラリンピックがひっそりと開催された様子を暗喩する見事な幕開けだ。
’60年代当時は戦争で負傷した人々がおり、労働災害、交通事故による怪我人が多発した時代だった。中でも脊髄損傷患者のように意識は清明でも下半身が不自由になった人たちのバランス回復に、とスポーツが奨励されるようになった。患者の自信や誇りの回復、失われたものより残った上半身を活かそうという発想だ。
因みに、パラリンピックとは「パラプレジア(下半身不随)」とオリンピックをかけた造語である。
様々な症例が示される。結婚式直前に駅の階段で男性とぶつかり、転落して下半身不随になった若い女性。結婚は自ら解消したという。戦争時、気付いたら米国の野戦病院にいたと語る男性。産褥熱で下半身不随となるも、子どもの笑い声が聞きたくて訓練を始めた母親。彼らが明るい笑顔で槍投げ、卓球、アーチェリーに励む様子は胸を熱くする。
この母親と、競技を応援する子どもたちの心配気な、時に喜ぶ表情が繰り返しアップで映し出されるのは、脚本・撮影・編集も兼ねた監督の意図が反映しているのだろう。
初めて治療にスポーツを取り入れた英国の病院で脊髄損傷センター所長を務めるルードヴィッヒ・グッドマン博士も登場する。最初は英国人だけの競技会だったが、’52年から国際的に開催され、12年後の東京パラリンピック。主催者たちの慧眼が分かる逸話だ。開催は決まったものの資金難のため歌声喫茶で募金活動をしていたとは涙ぐましい奮闘ぶりが伝わる。
当時の皇太子、皇太子妃(美しい!)臨席の開会式では、車椅子の選手たちと握手し、気さくに話しかけるご夫妻印象的だ。
土埃のグラウンド、バリアフリー設備が整備されない中、人力で選手たちを抱きかかえるボランティア。割烹着姿で掃除する婦人会、宿舎で歌いながら酒宴を囲む明るい外国人選手団。彼らと交流し、海外との社会福祉制度の違いを痛感したと語る日本選手。
多角的な視点から、映画は当時の在りのままの大会を描写する。
競技が始まると、選手たちは国を背負っている意識がないせいか、失敗してもず楽しげだ。出場できたこと自体が嬉しくて堪らないのだろう。気負いのない姿勢に和む。多くの勇気と感動を与えてくれる必見の価値を有すドキュメンタリーだ。(幸)
製作国:日本
配給:KADOKAWA
日本初公開:1965年5月15日
白黒/モノラルリンク/63分
公式サイト:http://cinemakadokawa.jp/tokyopara1964
/2020年1月17日(金)より ユナイデットシネマ豊洲にて公開★
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