11月25日(金)よりヒューマントラストシネマ渋谷、新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー 劇場情報
監督:フランク・マーシャル
製作:ナイジェル・シンクレア ジーン・エルファント・フェスタ マーク・モンロー フランク・マーシャル
製作総指揮:デビッド・ブラックマン ジョディ・ガーソン スティーブ・バーネット ニコラス・フェラル キャシディ・ハートマン ライアン・サファーン
脚本:マーク・モンロー
撮影:マイケル・ドワイヤー
編集:デレク・ブーンストラ ロバート・A・マルティネス
出演:バリー・ギブ、ロビン・ギブ、モーリス・ギブ、アンディ・ギブ、エリック・クラプトン、ノエル・ ギャラガー(オアシス)、ニック・ジョナス(ジョナス・ブラザーズ)、マーク・ロンソン、クリス・マー ティン(コールドプレイ)、ジャスティン・ティンバーレイク、ピーター・ブラウン、ヴィンス・メロー ニー、ミカエル・ライリー、ルル、アラン・ケンドール、イボンヌ・ギブ、ビル・オークス、デニス・ブ ライオン、ブルー・ウィーバー
「マサチューセッツ」「ジョーク」「ホリディ」「ワーズ」「メロディ・フェア」「ステイン・アライヴ」など時代とジャンルを超越して名曲を生み出し続けたビー・ジーズ 栄光の軌跡
“人生のサウンドトラック”ともいえる名曲の数々を生み出してきた「ビー・ジーズ」。時代を疾走した楽曲と、彼らの人生を描き、ビー・ジーズのすべてを詰め込んだ音楽ドキュメンタリー。
ビー・ジーズは英国出身のバリーと双子の弟ロビンとモーリスのギブ3兄弟によるグループ。オーストラリアに渡った少年時代から音楽活動を開始し、1967年に帰英し本格的な音楽活動を始め、半世紀を超えるキャリアを誇る。時代の変遷の中、数々の名曲を作り続け、全世界でのレコードセールスは2億枚以上、そのうち全英・米 No.1ヒットが 20 曲、トップ10ヒットが70曲を数える。澄んだ歌声とスリーパート ハーモニーがトレードマーク。日本でも映画『小さな恋のメロディ』(1971)や『サタデー・ナイト・フィーバー』(1977)のサウンドトラックでその存在を知ったファンも多い。
しかしビー・ジーズの歩みは、実際には逆風と戦い続ける日々でもあった。ヒット曲連発の中、創作をめぐって想像を超えるプレッシャーにさらされ、世界的な名声を得た反動として壮絶なバッシングも受けた。それでも彼らは時代と立ち向かい、多くの人々の心に残る楽曲を作り続けた。
これは時代やジャンルを超越して名曲の数々を生み出し続けたビー・ジーズの3兄弟の「栄光の軌跡」を描いた感動のドキュメンタリー。
モーリスが2003年に他界するまで半世紀以上にわたる活動を続け、多くのアーティストに影響を与えた。貴重な写真や未公開映像を通して名曲誕生の瞬間を振り返り、エリック・クラプトン、ノエル・ギャラガー、クリス・マーティンらビー・ジーズを敬愛するアーティストたちが彼らについて語る。
監督は『インディ・ジョーンズ』シリーズなど数々の名作を手がけたプロデューサーで、『生きてこそ』などの監督作で知られるフランク・マーシャル。
『サタデー・ナイト・フィーバー』(1977)の主題歌「ステイン・アライブ」で始まり、もう胸が高鳴る。この映画には思い入れがある。1982年頃だったと思うけど、当時、長野県白馬村に住んでいて、松本にある中劇シネサロンで『サタデー・ナイト・フィーバー』が上映されるというので、遠く松本まで観に行った。中劇シネサロンは座席数40席くらいで、日本一小さいと言っていた映画舘だった。この映画を観終わって、白馬村までの車中、ずっとこの「ステイン・アライブ」の曲が頭の中で繰り返し流れ、「Ah, ha, ha, ha, stayin' alive, stayin' alive. Ah, ha, ha, ha, stayin' alive.」と、繰り返し口づさみながら暗い夜道の運転をして帰ったことを思いだした。そして、その次の日からもずっと、この曲が耳について離れないので、また次の休みの日にも観に行った。確か2週間くらい上映していたと思う。白馬、松本間は約60㎞、山間部なので片道2時間くらいはかかった。でも、どうしても行っておきたかった。それまで2回も観た映画はなかった。2回も観た、初めての映画だった。中劇シネサロンではほかにも映画を観たのに、他は何を観たか忘れてしまった。まだ映画にハマる7年くらい前。今回のことで中劇シネサロンを調べてみたら、2004年に閉館していた。それこそミニシアターブームの前からあった映画館だった。
だから「ステイン・アライブ」が最初に流れてびっくりしてしまった。私はこの曲が流行っていたというのを知らなかった。ただ、この映画の主題歌として知っていたが、ビー・ジーズのアルバムの中で、当時最高のアルバムセールスを記録した『サタデー・ナイト・フィーバー』のサウンドトラックアルバムと書かれていたので、そんなにヒットしたんだと思った。
この曲で、一気に当時を思い出し、たくさんのビー・ジーズの曲が流れ、懐かしさがこみ上げた。それにしても私は曲は知っていたけど、ビー・ジーズのことをなにも知らなかった。兄弟グループだというのもこの映画で知ったし、イギリス、アメリカと活動の場を変えていったというのも知らなかった。60年代から半世紀以上の歳月、変化し続け、時代を越えて歌を作り出していたビー・ジーズの軌跡を知ることができてよかった。オアシスのノエル・ギャラガーが「兄弟の歌声は誰にも買えない楽器だ」と讃えていたが、ほんとにそう思う。彼らの歌声は永遠だ(暁)。
ビー・ジーズのドキュメンタリーと知って、あ~大好きだったビー・ジーズ!と、喜び勇んで映画を観たのですが、実は、彼らについてほとんど何も知らなかったことを突き付けられました。
ビー・ジーズと聞いて思い浮かべるのは、「マサチューセッツ」「ジョーク」「ワーズ」といった曲でした。私がラジオをよく聴いていた中学・高校時代に、聴いて心地よいと思った曲たちです。なにしろラジオ。どんな顔をした人が歌っているのか知っていたのは、ビートルズやサイモン&ガーファンクルなど、ごく一部。
映画『小さな恋のメロディ』は観てないのですが、曲を聴いてみれば、ほとんど知っている好きな曲で、この映画のための楽曲だったのかとあらためて知りました。
『サタデー・ナイト・フィーバー』に至っては、映画は観ているし、20代の頃、会社帰りに皆で行ったディスコで「ステイン・アライヴ」はよく流れていた曲なのに、この映画を観て、ビー・ジーズの曲だったの?と驚いた次第。それまでのビー・ジーズの曲風とちょっと違っていたから、結び付かなかったのかも。
このところ、1960年代、70年代に活躍したミュージシャンの映画が数多く公開されていて、今さらながら知ることが多いです。今なら、ネットですぐに何でも情報が入るところですが、あの頃は、よほど興味を持って調べないとわからない時代でした。それはそれで、手探りの楽しさもあったことを懐かしく思い出します。(咲)
公式HP https://thebeegees-movie.com/#
2020年製作/111分/G/アメリカ
日本語字幕:大渕誉哉/字幕監修:吉田美奈子
配給:STAR CHANNEL MOVIES
人生クライマー 山野井泰史と垂直の世界
2022年11月25日(金)より角川シネマ有楽町ほか全国公開 劇場情報
今年3月、ヒューマントラストシネマ渋谷にて開催された「TBSドキュメンタリー映画祭2022」で、クローズド作品として上映され注目を浴びた『人生クライマー 山野井泰史と垂直の世界』が、絶賛の声を受け、さらに9分の新規カットを追加した《完全版》となって、11月25日(金)より劇場公開されます。
出演:山野井泰史、山野井妙子、他
監督:武石浩明
語り:岡田准一
撮影:沓澤安明 小嶌基史 土肥治朗 編集:金野雅也
MA:深澤慎也 音楽:津崎栄作
企画・エグゼクティブプロデューサー:大久保竜
チーフプロデューサー:松原由昌 プロデューサー:津村有紀
TBS DOCS事務局:富岡裕一
協力プロデューサー:石山成人 塩沢葉子
彼は何故、生きて還り続けられたのか?
「誰も成し遂げていないクライミングを成功させて、生きて還る」世界の巨壁に単独で挑み続けてきたクライマー・山野井泰史。2021年には、登山界最高の栄誉であるピオレドール生涯功労賞を受賞した。しかし、山野井の挑戦は終わらない。伊豆半島にある未踏の岩壁に新たなルートを引き、挑戦。そして再びヒマラヤにも…。
“垂直の世界”に魅せられた男の激しい生き様とは?
貴重な未公開ソロ登攀映像とともに振り返り、山野井のパートナーである、やはり日本有数の登山家である、妻・妙子(旧姓長尾)との日々の生活と登攀訓練の日々が描かれる。
山野井泰史:1965年生まれ。中学3年の時に日本登攀クラブに入り、高校卒業後'84〜'87年にかけてヨセミテに通い、その後、高難度のフリークライミングから海外のビッグ・ウォールまで、常に先鋭的な登攀を続け、その卓越したソロクライミング技術は、国内外から世界屈指のクライマーと評価を受けている。
世界の巨壁に「単独・無酸素・未踏ルート」にこだわり、挑み続けた登山家・山野井泰史。伝説のクライマーの足跡を貴重な未公開ソロ登攀映像とともに振り返る。1996年、ヒマラヤ・マカルー西壁。山野井泰史は、かつて世界最難関の巨壁に、たった一人で挑んだ。敗退し、その後もずっと、この「マカルー西壁」を登攀することを目標に登攀を続けていた。この「マカルー西壁」は、誰も直登できてはいない。永遠の課題かもしれない。TBS取材の始まりは、この1996年、ヒマラヤ最後の課題「マカルー西壁」に単独で挑む山野井泰史の《究極の挑戦》への密着取材から始まった。
その後、山野井は、2002年チベット・ギャチュンカン登頂後に凍傷で手足の指10本を失い、リハビリののち登攀を再開する。2008年には奥多摩山中で熊に襲われ重傷を負う。それでもなお“垂直の世界”に魅せられ、挑戦し続ける登山家の姿を追う。過酷な挑戦を続ける山野井泰史の日々。山野井が生きて還り続けられたのは、事前の準備のち密さと日々の訓練ともいえる。家の中にもたくさんのボルダリングの手がかりが設置されている。極限まで自らを追い込み、自らに妥協しない姿。同じく著名な登山家である妻の妙子との二人三脚が描かれる。
ナレーションは、”語り手”としてドキュメンタリー映画に初めて参加する岡田准一。岡田自身山好きで、クライマーは憧れの存在と語る。
監督は自らもヒマラヤ登山経験のあるジャーナリスト・武石浩明。公私ともに山野井と交流しながら追い続けた26年、長期に渡る取材を通して「極限の人」の実像に迫る
山野井泰史さんの絶え間ない挑戦は、妻、妙子さんとの二人三脚あってのものというのがよくわかりました。たとえ単独登攀だとしても、その前後の家族の協力と理解がなければできないわけで、妙子さんとは最強コンビですね。毎日が登攀の為の訓練。家の中のボルダリングの訓練場所だけでなく、奥多摩に暮らしていた時は回りの奥多摩の山々が毎日の訓練の場だったでしょう。奥多摩に暮らしているものだとばかり思っていたのですが、いつのまにか伊豆に引っ越していたのですね。伊豆高原の城ケ崎海岸の岩場。叔母の家が伊豆高原にあり、何度かこの場所を訪れたことがあるけど、ロッククライマーたちの訓練場所として有名だとは知りませんでした。伊豆に引っ越したら今度は、これら伊豆の海岸沿いの岩壁が訓練の場になっているのでしょう。また富士山へ自転車で行ける距離にあるのも、大きな利点なのだなと思いました。富士山での高所訓練は、海外の高い山へ登るときの訓練場所として最大のメリットがあります。
私も中国四川省の四姑娘(スークーニャン)山(4000m級)にトレッキングに行こうと計画した時、約2か月前の1989年6月4日に富士山に高所訓練のために初めて登りました。スキーを担いでの登頂。そして山頂からスキーで滑り降りたのですが、今でも山頂の縁から滑りだした時の急斜面の恐怖感は忘れられません。でも50mも滑り降りたら斜度が緩くなり、それからの滑降は快適でした。富士山山頂に登り、山頂から6合目くらいまでのスキー滑降、素晴らしい経験ができました。そして、山から下り、夕方電車に乗った時に、天安門事件が起こっていたのを知りました。私たちが富士山に登っていた時に天安門事件は起こっていたのです。せっかく高所訓練はしたけど、行っている場合ではないと、結局、中国へは行くのはあきらめました。富士山に登ったのは、その1回だけ。やはり他の山と違って、山頂近くは酸素が薄く、呼吸がけっこう苦しかったのを覚えています。
山野井さんは、8000m級の山へ一人で登るというスタイルですが、酸素マスク無しで登っているとのこと。3776mの富士山でさえ、呼吸が苦しくなったのに、8000m級の山へ酸素マスク無しで登っているのかと驚きです。
これまでたくさんの日本人クライマーが山へ挑戦し亡くなっていますが、山野井泰史さんは、その中で生き延びて来ました。挑戦する心と安全のことを考え抑制心のバランスを持っているからこそのことだと思いました。山では引き返す勇気も必要です(暁)。
公式HP https://jinsei-climber.jp/
製作:TBSテレビ 配給:KADOKAWA 宣伝:KICCORIT
2022年/日本/109分/5.1ch/16:9
今年3月、ヒューマントラストシネマ渋谷にて開催された「TBSドキュメンタリー映画祭2022」で、クローズド作品として上映され注目を浴びた『人生クライマー 山野井泰史と垂直の世界』が、絶賛の声を受け、さらに9分の新規カットを追加した《完全版》となって、11月25日(金)より劇場公開されます。
出演:山野井泰史、山野井妙子、他
監督:武石浩明
語り:岡田准一
撮影:沓澤安明 小嶌基史 土肥治朗 編集:金野雅也
MA:深澤慎也 音楽:津崎栄作
企画・エグゼクティブプロデューサー:大久保竜
チーフプロデューサー:松原由昌 プロデューサー:津村有紀
TBS DOCS事務局:富岡裕一
協力プロデューサー:石山成人 塩沢葉子
彼は何故、生きて還り続けられたのか?
「誰も成し遂げていないクライミングを成功させて、生きて還る」世界の巨壁に単独で挑み続けてきたクライマー・山野井泰史。2021年には、登山界最高の栄誉であるピオレドール生涯功労賞を受賞した。しかし、山野井の挑戦は終わらない。伊豆半島にある未踏の岩壁に新たなルートを引き、挑戦。そして再びヒマラヤにも…。
“垂直の世界”に魅せられた男の激しい生き様とは?
貴重な未公開ソロ登攀映像とともに振り返り、山野井のパートナーである、やはり日本有数の登山家である、妻・妙子(旧姓長尾)との日々の生活と登攀訓練の日々が描かれる。
山野井泰史:1965年生まれ。中学3年の時に日本登攀クラブに入り、高校卒業後'84〜'87年にかけてヨセミテに通い、その後、高難度のフリークライミングから海外のビッグ・ウォールまで、常に先鋭的な登攀を続け、その卓越したソロクライミング技術は、国内外から世界屈指のクライマーと評価を受けている。
世界の巨壁に「単独・無酸素・未踏ルート」にこだわり、挑み続けた登山家・山野井泰史。伝説のクライマーの足跡を貴重な未公開ソロ登攀映像とともに振り返る。1996年、ヒマラヤ・マカルー西壁。山野井泰史は、かつて世界最難関の巨壁に、たった一人で挑んだ。敗退し、その後もずっと、この「マカルー西壁」を登攀することを目標に登攀を続けていた。この「マカルー西壁」は、誰も直登できてはいない。永遠の課題かもしれない。TBS取材の始まりは、この1996年、ヒマラヤ最後の課題「マカルー西壁」に単独で挑む山野井泰史の《究極の挑戦》への密着取材から始まった。
その後、山野井は、2002年チベット・ギャチュンカン登頂後に凍傷で手足の指10本を失い、リハビリののち登攀を再開する。2008年には奥多摩山中で熊に襲われ重傷を負う。それでもなお“垂直の世界”に魅せられ、挑戦し続ける登山家の姿を追う。過酷な挑戦を続ける山野井泰史の日々。山野井が生きて還り続けられたのは、事前の準備のち密さと日々の訓練ともいえる。家の中にもたくさんのボルダリングの手がかりが設置されている。極限まで自らを追い込み、自らに妥協しない姿。同じく著名な登山家である妻の妙子との二人三脚が描かれる。
ナレーションは、”語り手”としてドキュメンタリー映画に初めて参加する岡田准一。岡田自身山好きで、クライマーは憧れの存在と語る。
監督は自らもヒマラヤ登山経験のあるジャーナリスト・武石浩明。公私ともに山野井と交流しながら追い続けた26年、長期に渡る取材を通して「極限の人」の実像に迫る
山野井泰史さんの絶え間ない挑戦は、妻、妙子さんとの二人三脚あってのものというのがよくわかりました。たとえ単独登攀だとしても、その前後の家族の協力と理解がなければできないわけで、妙子さんとは最強コンビですね。毎日が登攀の為の訓練。家の中のボルダリングの訓練場所だけでなく、奥多摩に暮らしていた時は回りの奥多摩の山々が毎日の訓練の場だったでしょう。奥多摩に暮らしているものだとばかり思っていたのですが、いつのまにか伊豆に引っ越していたのですね。伊豆高原の城ケ崎海岸の岩場。叔母の家が伊豆高原にあり、何度かこの場所を訪れたことがあるけど、ロッククライマーたちの訓練場所として有名だとは知りませんでした。伊豆に引っ越したら今度は、これら伊豆の海岸沿いの岩壁が訓練の場になっているのでしょう。また富士山へ自転車で行ける距離にあるのも、大きな利点なのだなと思いました。富士山での高所訓練は、海外の高い山へ登るときの訓練場所として最大のメリットがあります。
私も中国四川省の四姑娘(スークーニャン)山(4000m級)にトレッキングに行こうと計画した時、約2か月前の1989年6月4日に富士山に高所訓練のために初めて登りました。スキーを担いでの登頂。そして山頂からスキーで滑り降りたのですが、今でも山頂の縁から滑りだした時の急斜面の恐怖感は忘れられません。でも50mも滑り降りたら斜度が緩くなり、それからの滑降は快適でした。富士山山頂に登り、山頂から6合目くらいまでのスキー滑降、素晴らしい経験ができました。そして、山から下り、夕方電車に乗った時に、天安門事件が起こっていたのを知りました。私たちが富士山に登っていた時に天安門事件は起こっていたのです。せっかく高所訓練はしたけど、行っている場合ではないと、結局、中国へは行くのはあきらめました。富士山に登ったのは、その1回だけ。やはり他の山と違って、山頂近くは酸素が薄く、呼吸がけっこう苦しかったのを覚えています。
山野井さんは、8000m級の山へ一人で登るというスタイルですが、酸素マスク無しで登っているとのこと。3776mの富士山でさえ、呼吸が苦しくなったのに、8000m級の山へ酸素マスク無しで登っているのかと驚きです。
これまでたくさんの日本人クライマーが山へ挑戦し亡くなっていますが、山野井泰史さんは、その中で生き延びて来ました。挑戦する心と安全のことを考え抑制心のバランスを持っているからこそのことだと思いました。山では引き返す勇気も必要です(暁)。
公式HP https://jinsei-climber.jp/
製作:TBSテレビ 配給:KADOKAWA 宣伝:KICCORIT
2022年/日本/109分/5.1ch/16:9