2021年08月01日

オキナワ サントス 英題:OKINAWA/SANTOS

7月31日(土)より[沖縄] 桜坂劇場にて先行上映、 
8月7日(土)より[東京]シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開
劇場情報
『オキナワ サントス』チラシ表面_R_R.jpg
(C)玄要社

戦後70年以上を経て明かされる
サントス「日系移民強制退去事件」の真実

監督・撮影・編集:松林要樹
カラーコレクション:中谷駿吾 (ムーリンプロダクション)
整音:川上拓也
取材協力:ブラジル沖縄県人会 サントス日本人会

かつてブラジル南東部の港町サントスは移民が着く玄関港だった。
第二次世界大戦前夜から戦中のブラジルでは、ヴァルガス独裁政権は高まるナショナリズムの中、約20万人の日系移民に対し日本語新聞の廃刊、日本語学校の閉鎖、公の場での日本語の使用禁止などを命じた。そして1943年7月8日、突然サントスで暮らす日系とドイツ系の移民に、24時間以内の退去命令が下った。家財や土地を残したまま、着の身着のまま、ある者は収容所へ、ある者はサンパウロの親戚の家や他の地域へと退去させられた。家族と生き別れ、コミュニティは離散した。しかし戦後70年以上、この「サントス日系移民強制退去事件」はタブーになっていて、この悲惨な出来事がブラジルの日系人社会で公に語られることはなく来てしまった。なぜ人々は口を閉ざし続けてきたのか? いったい何が起きていたのか?  
この歴史の深い闇を探るのは『花と兵隊』『祭の馬』の松林要樹監督。監督は、サンパウロで発行されているニッケイ新聞編集長・深沢正雪さんから「サントス強制退去事件」のことを聞き調査を始めた。そして発見された強制退去者の「名簿」から、日系585世帯の6割が沖縄からの移民だった事実に注目し、ブラジル沖縄県人会の協力を得て生存者たちを訪ね、日本とブラジル、大和と沖縄の間に埋もれた史実を明らかにしていく。日本から遠く離れた異国で、知られざる「戦中」「戦後」を生き抜き、晩年を迎えた人々の証言。なぜ、この事件を大っぴらに語ってこられなかったのかが、だんだんわかってくる。
公式HPより
「東京オリンピックが開催されようとしているが、今も世界各地で移民や難民の排除が起きている。具体例を挙げるまでもなく、日本政府はもちろん、一般のいわゆる日本人が難民や移民に対して決して寛容だとは思えない。この映画の撮影を開始した2016年には、今のようなパンデミックな世の中になっていることは予想すらできなかったが、不寛容な社会になっていることは想像できた。戦時中、地球の裏側のブラジルで起きたことは、日本がアジアでとった軍事行動の裏返しだったと考えるようになった。時として戦争の加害者と被害者とが表裏一体になることがあると思う。だから戦時中に日系ブラジル人が経験したことは、遠い国の昔の話ではなくて、現代にも通じる普遍的な教訓になる出来事だと信じている」松林監督はこのように語っている。

子供の頃からアマゾン河一帯の動物や自然に興味を持ち、中学生くらいからブラジル(というかアマゾン)移住を考えていた私は、中学校、高校と、ブラジルや移民関係の本を図書館から借りてきては読んでいた。なのでブラジル移民の歴史や事件、苦労はある程度知っているつもりだった。でも、戦中・戦後の日系人の苦労を全然知ってはいなかった。この10数年のブラジルを描いたドキュメンタリー作品などから、「勝ち組・負け組抗争」などの事件を知った。そして、この作品では「サントス強制退去事件」のことと共に、沖縄からの移民と本土からの移民の間に対立というか溝があったことを知った。また「強制退去」はサントスだけで起きたのだろうか? ほかの地域ではなかったのだろうか?という疑問も残った。サントスがブラジルの入口だったこととか、当時ドイツ軍の潜水艦がサントスにやってきて、ブラジルやアメリカの商船を攻撃し撃沈させるという事件が起き、「サントスのドイツ・日本関係者の中にスパイがいると、24時間以内の退去を命じた」とも言われたらしい。彼らの人生を語る話は、ヘイトクライムや難民問題、技能実習生や海外から日本に働きに来ている人たちへの対応問題など、現代の日本が直面していることにも通じる。
2019年、ピースボートの船で南米に行った時、ブラジル(リオデジャネイロ)、ウルグアイ(モンテビデオ)、アルゼンチン(ブエノスアイレス)、チリ(バルパライソ)に立ち寄ったが、「日本人は、国の農業や産業に多大な貢献をして、尊敬されている」と聞かされた。しかし、この「サントス強制退去事件」から思うのは、そのイメージからは程遠い。戦前は嫌われ、その後は日本からの移民も打ち切るというような話さえあったという。サントス強制退去の時には、日本人が去った後、土地や家財道具などを市民が略奪したという話もあった。そんなこともあったけど、戦後、努力した日本人たちのおかげで、そういう「尊敬される日本人」が形成されていったのだろうか。この映画の中でも、こういう強制退去のことも蒸し返さず、損害賠償も起こさずに来たことが出てきたが、そういう「我慢=あきらめ」の結果として、「尊敬される日本人像」が生まれたのかと思うと、悔しい思いをした人の心情を思わずにはいられない。そういう経験者も数少なくなってきている現在、この事件の記憶、記録を残す最後の機会だったと思う(暁)。


『オキナワ サントス』公式HP
FB:https://www.facebook.com/okinawa.santos.film
Twitter:https://twitter.com/okinawa_santos

製作:玄要社
配給:東風 
日本/2020年/90分/(C)玄要社
posted by akemi at 21:09| Comment(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

元カレとツイラクだけは絶対に避けたい件(原題:Horizon Line)

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監督:ミカエル・マルシメーン
脚本:ジョシュ・キャンベル マシュー・ストゥーケン
撮影:フラビオ・マルティネス・ラビアーノ
出演:アリソン・ウィリアムズ(サラ)、アレクサンダー・ドレイマン(ジャクソン)、キース・デヴィッド(フレディ・ワイマン)

かつて仕事をとって恋人のジャクソンと別れたサラ、友人の結婚式のためにやってきた島で何年ぶりかにその元カレと再会。旧交を温めてうっかり船に乗り遅れてしまった。式に遅れるわけにはいかないと、知り合いの小型機に乗りこんだが、なぜかジャクソンも同乗する。なんとなく気まずい雰囲気でいたら、パイロットのフレディが飛行中に急死してしまう。サラは少しだけ操縦を習ったが、単独の経験はない。ジャクソンはもちろんただの人だ。自動操縦が機能しなくなり2人はパニックに陥る。おまけに目の前には巨大な乱気流が待ち構えていた。さあ、どうする??

タイトルが今風で面白いですが、内容は窮地に陥った元恋人の2人が、墜落だけは避けたいと必死に奮闘するストーリー。かなり古い小型機が6000mの上空でパイロット急死。誰だってパニックになるし、「ツイラク」はしたくありません。頼りになるのはサラのずっと前の飛行経験だけ。一難去ってまた一難とばかりにトラブル続出です。臨場感たっぷりの音声に包まれたら、ジェットコースターの何倍もの「キャー――!!」が劇場に満ちるはず。暑い日は涼しくなりそうです。
アリソン・ウィリアムズは『ゲット・アウト』(2017)で、主人公の彼女役でした。アレクサンダー・ドレイマンはお初です。2人、上空でトム・クルーズばりの活躍を見せます。カップルで観ると絆が深まるかも。(白)


2020年/スウェーデン、アメリカ合作/カラー/シネスコ/92分
配給:ギャガ
(C)2020 STX FINANCING, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
★2021年8月6日(金)TOHOシネマズ日比谷ほか全国ロードショー
posted by shiraishi at 19:50| Comment(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

カウラは忘れない

8月7日(土)~ ポレポレ東中野、東京都写真美術館ホール他全国順次公開
上映情報
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©瀬戸内海放送

瀬戸内海放送発ドキュメンタリー映画第2弾
監督:満田康弘
撮影:山田寛
音楽:三好麻友
MA:木村信博
EED:吉永順平
CG:斎藤末度加 南真咲 渡辺恵子 小林道子
通訳:スチュアート・ウォルトン 清水健

カウラの日本人捕虜集団脱走事件を知っていますか?

『カウラは忘れない』は、『クワイ河に虹をかけた男』で旧日本軍の贖罪と和解に生涯をささげた永瀬隆を20年にわたって取材したTV番組(のちに映画として公開)を作った満田康弘監督のライフワーク、渾身の第2作目のドキュメンタリー。
*『クワイ河に虹をかけた男』HP

太平洋戦争中の1944年8月。オーストラリア東部にあるカウラの捕虜収容所で、近代戦史上最大の1104人の日本人捕虜集団脱走事件が起こった。正確には脱走というより「このまま生きては祖国には帰れない」という「死ぬための行動」だった。捕虜234人が死亡、108人が負傷した(のちにこの時の傷で3人が死亡)。オーストラリア監視兵4人も犠牲に。彼らを絶望的な集団脱走へ向わせたのは、「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」という、「捕虜になることを恥」とした東條英機陸相による「戦陣訓」(1941年)に象徴される旧日本軍の方針だった。そのため捕虜たちは本名を名乗らず偽名の人も多かった。
オーストラリア側の捕虜の待遇は悪くはなかった。食料不足はなく、強制労働というのもなかったという。捕虜たちは麻雀や花札、演劇など様々な娯楽を楽しんだり野球を楽しむこともあった。手製のバットやグローブを作り、班対抗の試合なども行われていた。
そんな収容所で生活を送るうち、捕虜たちの間には「生きたい、生きて帰りたい」と思う人もいた。しかし「貴様らそれでも帝国軍人か!」のひと言でかき消され、「このまま生きて祖国には帰れない」と脱走に突き進んだ。
カウラ事件から77年。カウラの人々はこの事件で亡くなった人たちを追悼する式典を続け、事件を教訓に平和都市として日本文化の理解や交流に取り組んできた。また日本側でも、生存者たちに残る悔恨や思いを受け止めようと聞き書きをする高校生や演劇人がいる。70周年記念行事に生存者としてただ一人参加した村上輝夫さんに、当時事件の収拾にあたったオーストラリアの元兵士は「もう私たちは隣人だ」と語りかけた。カウラは事件を教訓に平和都市として日本文化の理解や交流に取り組んできたのだ。
日本ではほとんど知られていないこの事件の真相を探るドキュメンタリー。

日本人の間にはほとんど知られてこなかった、近代史上最大の捕虜脱走事件といわれるカウラ事件。捕虜収容所では、捕虜の間に階級の序列はなく、重要事項は全員の投票を経て決定し、形式的には民主的な秩序が成立していたという。決起への是非を問う投票で、トイレットペーパーの投票用紙に8割の人が「○」(脱走に賛成)と書いたらしい。生存者の捕虜の一人は「本当は×と書きたいけど、〇と書かなければならないという『雰囲気』があった」。「貴様らそれでも帝国軍人か!」という一言で、「生への執着」が抗えなかったと語っていた。これを現代に置き換え、同じような状況に置かれたとき、私たちは大きな声、まわりの圧力に抗い、自分の意志を貫くことができるだろうか? 現代を生きる私たちに問いかける。知られざる戦争の歴史を知らせてくれるドキュメンタリー。この事件があったことを日本人は忘れてはならない(暁)。

98歳の父に、このカウラでの日本人捕虜集団脱走事件を知っているかと尋ねたところ、初めて聞いたとのこと。捕虜といえばと、こんな話をしてくれた。学徒出陣した時の同期で、横須賀の武山海兵団での予備学生時代の友人が、沖縄の特攻隊に任命されて戦死したと聞いていたのに、戦後、中野の商店街で店番しているのに出会い、びっくりして「戦死したのじゃなかったのか?」と聞いたら、実はアメリカの駆逐艦に助けられて捕虜になり、終戦までハワイにいたとのこと。捕虜になっていたことは、おおっぴらには言えなくて・・・と笑っていたそう。ハワイの捕虜収容所でも、意見の対立があって大変だったと聞かされたそうだ。ちなみに、父たち海軍同期の間では、お上のいうことを鵜呑みにする雰囲気はなかったという。
カウラでは、捕虜とはいえ待遇も悪くなく、せっかく生き長らえたのに、「捕虜は恥」と集団で死ぬことを扇動され、嫌と言えずに命を落とした人もいたことに涙が出る。地上戦になった沖縄でも、同じ地域で、軍人のいた防空壕では集団自死を強要されたが、軍人のいなかった防空壕では全員が助かった事例がある。こんな悲しい歴史を繰り返してはならないと思う。コロナ禍の今、似たようなことが起こっても不思議はないので、なおさらその思いを強くする次第だ。(咲)


*シネマジャーナル 特別記事
戦時下の捕虜脱走事件が現代に問いかける
『カウラは忘れない』満田康弘監督インタビュー
http://cineja-film-report.seesaa.net/article/cowra-mitsuda.html

『カウラは忘れない』公式HP
協力 国立療養所邑久光明園 山陽学園 
Theater company RINKOGUN燐光群 坂手洋二 山田真美 田村恵子
カウラ事件70周年記念行事実行委員会
資料提供 オーストラリア戦争記念館 国立駿河療養所
製作 瀬戸内海放送 配給 太秦 
後援 オーストラリア大使館
2021/日本/DCP/カラー/96分
posted by akemi at 18:13| Comment(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする